「車いすを使って生活すると言うこと」

 世の中にはいろんなバリアがあって、その感じ方も、その人その人で違ってくる。障害だって人それぞれ違うわけで。あとはその人の生き方の問題になるとは思うんだけれど、あまりにも、生活を<選択>できる場面がこの社会は少ないんじゃないかと思う。もしくは選択できる環境が整っていても、その情報を知ることができずにいるんじゃないか。
 世の中にはたくさんのバリアがあり、そのバリアを感じながらみんな一生懸命生きている。そんな中でいろんな情報がクロスして、必要なときに必要な情報を手に入れることができる、そんな社会が実現できればいいなあ、と。そのためには、いろんな人がお互いのことを分かり合わないとだめだし、そのための努力をしていく必要があると思うのです。


2005年6月26日(日)「自立生活をするための5つのバリア」

 6月22日の日記について、やまなさんからメールを頂いたので紹介しますね。

 『車いすで子供達が成長し、自立生活するのは結構たいへんです。物理的バリアーの他に
制度的バリアー:就学、就労、地域でのきまりなど
情報的バリア−:得られる情報が制約される
意識のバリア−:みんなの心にある差別や偏見
無意識のバリア−:無関心、無知による悪意のないバリア−や、やり方が間違っている親切、これは案外きつい!
いろんなバリアーと戦ってたくましくなって欲しいのですが、心が固くなったり、自分のやり方はヘンかもと自省するゆとりが無くなっている障害を持った人を見るのは、これまで周りに恵まれてこなかった環境を思ってやりきれ無さが起ります。
1、
横浜市役所で小型の手動車いすの青年に会いました。介助なしで単独なので、とても辛そうなので声をかけてしまいました。
「小型の電動で随分便利なものが手に入るようになって来てるよ。 手動では行きたいところも我慢したり、物凄くたいへんだったりで、一番来易いはずの市役所でもエネルギーを使い過ぎてクタクタ状態になったりするでしょう。便利な機具は上手く使って、もっとやりたいことにエネルギーを使ってみませんか。」「僕は自分の主義で手動にこだわっているので、余計な事を言わないでくれ。 電動なんか使うとい身体が衰える。」と怒られました。       
2、
博多の地下鉄で手動車いすに、両側にバックミラーを取り付け、片方だけ足のせを上げて、地面を片足で蹴り続けて後ろ向きに移動していく変なおじさんに会いました。(想像できますか?)ちょっとビックリ!「何でそんなことしてるの?たいへんでしょう。」周りの人もちょっと迷惑かも。「機能が残ってる片足を鍛練しているのだ!」なんか得意そう?!
3、
厚生省の補装具給付の考え方「両手の機能が残っている障害者は、手動車いすが漕げる。電動を使うと身体機能が衰えるので良くない。」従って下肢障害者には電動を給付しないのが全国的に基本的運用になっている。

 社会人として自立生活をするために一番基本的なことの一つが「一人で、介助無しに」外出できることだと考えています。そのために交通バリアフリー法やハートビル法が制定されているのです。物理的バリア−だけでも出来るだけ無くしようという立派な建前です。最近、子供の時からの障害者は、疲れてくるのは当然なのだと分かってきました。車いす歴3年しか経っていなくても、「ありがとう」「すみませんが」を言い疲れたぞ!ってふと思うことがあるようになりました。ずっとそんな境遇の人をどれでけ理解出来ているのか自信がありません。心が固くならないような環境であって欲しいものです。』

 やまなさん、メールをありがとうございました。
 でもほんと、自立する、と言うことって、どういうことなんでしょうね。世の中にはいろんなバリアがあって、その感じ方も、その人その人で違ってくる。障害だって、人それぞれ違うわけで。あとはその人の生き方の問題になるとは思うんだけれど、あまりにも、生活を<選択>できる場面がこの社会は少ないんじゃないかと思う。もしくは選択できる環境が整っていても、その情報を知ることができずにいるんじゃないか。
 いつも思うんですけど、このホームページをやっていて、「お前に何がわかる」と思われているんじゃないかなあ、というのがすごく気がかりです。というか、そういわれても「わかりません」というしかないんですが。基本的にそのひとのことは、その人にしかわからない、と言うのが、私自身の考えなんで。でも、そこで想像したり、理解しようとすることはできるかな、と。情報を共有したり、交換することで、少しは風通しがよくなるんじゃないか、と言う気持ちで、ずっとこの活動を17年やって来ました。
 やまなさんの書いてくれたように、世の中にはたくさんのバリアがあり、そのバリアを感じながらみんな一生懸命生きている。そんな中でいろんな情報がクロスして、必要なときに必要な情報を手に入れることができる、そんな社会が実現できればいいなあ、と。そのためには、いろんな人がお互いのことを分かり合わないとだめだし、そのための努力をしていく必要があると思う。上記の1〜3のケースについても、自分自身驚いたし、でも、あり得ることだな、と思った。だけども、決して社会のせいにすることなく、もっといろんなアイディアがあるよ、と言うようなことを、もっともっと「がったん」を通じて伝えていきたいと思っています。なんだか、長くなってしまい、論点もずれてしまったかも。済みません、今日はこの辺で。


2005年6月24(金)「<自立を支援する>ためのバリアフリーに」

 数日前と同様、今日も都合があって電車通勤。でも、考えてみると、世の中の人って、電車通勤の人って、すごく多いのかも、と思ったんですね。自分が車通勤なので、ぴんと来ないのもあるんですけど。というか、大部分が電車通勤、なのかな?まあ、電車通勤と言っても地域によって様々だとは思いますが。混み具合とかね。ラッシュの混みようと言ったら、すさまじいものがあるところもあるだろうし。「ああ、今日は電車通勤だなあ。」な〜んて、気楽に喋ってると怒られちゃうかも。
 で、通勤スタイルとして電車通勤を選んだ場合、じゃあ、自分が車いすで今の時間帯に通勤できるか?といえば、難しいでしょうねえ。ラッシュの混み具合はそんなにひどくないし、自由に使えるエレベーターも一部分あるけれど、あくまでも一部分で。1カ所だけ、車いす対応エスカレーターを使わなければならない駅がある。さすがに毎日朝と帰りに、駅員さんを呼び止めて「済みませんが、使いたいんだけど」という勇気はないなあ。というか、逆に駅員さんから言われるでしょうね。「毎日は勘弁してください」とか、「ラッシュ時間帯は避けてください」とか。でも、それって使えないってことだものねえ。駅員さんの力を借りなきゃ使えない設備は、限りなく階段と同じだと思っていいのかも。言い過ぎか。でも、日常的には使えないってことは言えると思う。たまの旅行はいいかもしれないけれど、生きていくってことは毎日の日常の繰りかえしなわけで。もっと、バリアフリーの考え方を変えて行かなきゃ行けない時期に来ている気がします。「お世話する」ためのバリアフリーではなく、「自立を支援する」ためのバリアフリーであるべきではないか、と。これって、バリアフリーという言葉を「ボランティア」や「福祉」という言葉に置き換えることもできるだろうし。一歩前へ進むために、考えて行ければと思う今日この頃です。


2005年6月14日(火)「話し合いの<渦>を作りましょう!」

 おとといは車いすのことを話し合える場がもっと欲しい!と、なんだか駄々っ子のような書き込みをしてしまいましたが(笑)、自分自身まだまだ知らないことが多いし、もっとたくさんのことを知りたい!という気持ちが強いです。ただ、まあ、仕事にしろ、家族にしろ、日々が慌ただしく、そのことに気持ちのすべてを注ぎ込めないのがとても残念ですが…。
 そんなことを考えていたら、タイムリーにやまなさんからのメールが。以下に紹介しますね。
 『昨日、ある大学で福祉の講座をもっている先生と話しましたが、車いすについて少し違う視点があることに気付かされました。車いすが道交法でしか規定されていないのは問題ではないかの話をしている過程で、「手動車いすは完全に歩行者と同じだが、電動車いすはちょっと違うのでは」と言われるのです?
 手動は歩行のための代替え手段である事は誰でも疑問の余地は無い、自分の力だけで走る事もできる。レーサータイプの車いすでぶっ飛ばしている人にすれちがってビックリした事もありますが。
 電動はきちんと位置付けをして、使う人の身体機能や能力に応じて整理し直し、自転車などと合わせて公共交通機関の乗車を考えてはどうか。北欧のようにもっと誰でもが自由に乗車出来るが、占有スペースに応じて料金を徴集する。もちろん障害者は無料、高齢者はどうするか考える。歩道や専用区分についても考え直す。
 議論を特別な人のためにせず、皆の問題の中で位置付ける方が良いと言う考えです。そうすれば、電動は時速6キロ以下で走れない問題も、欧米のような基準を考えるきっかけになり得るのではないだろうか?
 「ハンディのある人だけの特別な問題にしない」と言うのはかねがね考えている事なのですが、、、、。今の一般的な考えとかなり違い、「自分の力で動かす身体機能が無い障害なので電動を使う」障害者側からどのような反応がでるかが問題です。
手動でも自力走行する人と介助してもらう人は同じか?
 細かい異論は一杯あることでしょうが、本当の意味での自立支援とからめて、議論してみたいと思います。』
 
 う〜む…。なるほどねえ。<電動>の福祉機器に関しては、もっと違った視点で捉えて、社会生活の中でもっと使いやすくなれるよう、議論の糸口が見えてくるのではないか、という感じでしょうか。いろんな人が身近な問題として考えることができるよ、と。一理あり、ですね。考える人を増やして行かなきゃ、とは感じます。広がりが、ない気がして。そうじゃないと、何が大変だ、とか、困っていると言うことが見えにくい。結局当事者だけが抱え込んでしまいがちな気がします。
 ただ、生活していく上で、電動車いすでなければ移動できない人、または使用することで生活が著しく向上する人って、たくさんいると思うんです。その人たちにとっては、カラダの一部として、自然な形で使いたいという気持ちが強いのではないか、と思うのですね。
 どちらが生活の向上への早道なのかわからないんですけど、何かしかの<渦>を作っていく時期に来ている、そう感じています。


2005年6月12日(日)「車いすのことを話し合える場がもっと欲しい」

 以前、「車いす学会」みたいなものがあったらいいな、と言う話をこの日記でしたように思うんですけど、あらためて「車いす学会」という言葉で「google」で検索してみたら、その自分の日記がヒット(笑)。う〜む…。せっかくですから再録しておきますが。
 
 〜「車いすについて考える場がないんじゃないか。」結局二人でいろんなことを話していて、これはいい!と思ったアイディアも、それを伝える場、考えを共有する場がない。「〜学会」とか「〜シンポジウム」という集まりはいくつもあったとしても、<車いす>に関わるものはないんじゃないかと。いろいろネットで検索はしてみたんですけどもね。車いすに関わる問題はいろいろあると思うんです。「がったん」でも取り上げている<移動>の問題もそうだし。ただ、車いすそのものに対する問題について考える場が、今ないんじゃないか。使い勝手が悪いこともあるでしょう。こんな車いすがあったら、という意見もあるでしょう。そういう<生>の声が合ってもいいんじゃないかって思うんですよね。だって、他のいろんな製品だって、そういういろんなユーザーの声を反映しながらよりよいものになっていくと思うんです。車イスだってそういう仕組みがあれば、もっと変化が早い世界かなって。そのためにはいろんな声を集める場が欲しい。わかりやすい形での場が欲しい。

 今、車いすを取り巻く環境が大きく変わってきていると思うんですね。ここ10年がバリアフリーという総論について話を進めてきたのであるとしたら、これからの10年は各論としての「車いす」について話し合う場が必要なんじゃないか。そんなことを思うのです。移動手段としての車いすそのもののこともそうだし、車いすを使って生活をすると言うことはどういうことなのか、とか。
もう電動にしても手動にしても、ひとことでは説明できないぐらい広がりがあり、そこにハンドル型という新しい考え方も出てきている。ユーザーとしては、明らかに選択の幅が広がってきているはず。なのに、今ひとつ普及しないのはなぜか。行政の壁か、情報の少なさ、なのか。いいものをたくさん知りたい。伝えたい。共有したい。そして、一つの渦を作りたい。そうすることで、もう少し過ごしやすい社会ができるんじゃないか。そんなことを今考えているところなのです。