「知的障害を持つ人々へのバリアフリー」

 「車いす」や「白杖」、「盲導犬」という、目に見えるハンディに対しては随分周囲の理解が深まってきたような気がしますが、でも、それ以外の、「知的障害」「自閉的傾向のある人」「ADHD」などに対しては、その障害自体まだまだ認知されているとは言い難く、家族の方々がとてもつらい思いをしているというのが現状ではないではないでしょうか。
 <車イス>だけの視点ではない、もう一つのバリアフリーについて、私たちは考えていかなければならない時期に来ていると感じます。バリアフリー=車イス、だけではなく、「ああ、そういうことも大変なんだ」といろんな社会のバリアをたくさんの人に知ってもらうことが今、すごく大事なんじゃないかと思うのです。


2005年4月30日(土)

 あと、青森のミー子さんからもこのようなお便りを頂きました。
「久しぶりに東京に行きました。多動傾向のある息子を連れて行ったのですが、車椅子などと違う困難がありました。それは、トイレです。前回はお父さんも一緒だったので感じなかったのですが、小学3年生の息子。大人には、まったく警戒心がありません。駅などのトイレで母の私も入れるトイレは、こだわりなのか一切拒否。男性用トイレしか(新幹線の中でも)入りません。ちょっと目を離すと見つけられなくなるのですが、そのわりには、親がちょっと「待っててね、この荷物守っててね」って言って一人にしても親の姿が見えないと泣いてしまいます。母親がトイレに入ってしまうと、その前に、トイレの前で「トイレ行くから待っててね」と言っても、トイレを済ませて出てみると涙を流してうろうろしていました。
「お母さんがいなくなった」そう言っていました。男性用トイレに一人でというのも大人への警戒心がないためちょっと不安です。そして母親の私がトイレに行くとき、待つことに不安があり、でも女子トイレには入れないと思っている我が子をどうしたら良いのか、戸惑いました。電車や新幹線の中での多動は、薬やそのほかの工夫で解消されつつあります。
でも、やっとそれを乗り越えたと思ったらまたすぐに違う問題。今度の通院は、半年先、さてどうしたものか。」
 周囲からの視線とか、言葉かけが、車いすとは違った意味で大変気になるし、傷ついてしまったりすることが多いことでしょう。特に予期せぬことが突然起きてしまうと、自分の中で対応できなくなって、いわゆるパニックになってしまうことが多かったりします。っていうか、誰でもパニックになるでしょうけども。今回の事故だったら。その度合いが強い、と。
 社会にもう少し「ゆとり」が欲しい。教育にしても「ゆとり」が否定されてばかりの今日この頃。でも、相手を思いやるためには、ある程度心にゆとりがないとできないと思うし。ぜひ、「がったん」でも、いろんな視点で「バリアフリー」を考えていきたいと思っています。


2005年1月17日(月)「知的障害者の介護について〜もう一つのバリアフリー」

 2004年12月13日(月)のがったん日記で、「被災地の障害者の生活とは」というテーマを取り上げました。また、10月、11月には新幹線の多目的室についてのテーマも取り上げました。その際、知的障害、自閉的傾向のある人、精神障害のある人の利用について話題にさせて頂きましたが、今回電車を利用するときにはどんな点が大変か、みうさんにメールを頂きました。大変わかりやすい文章でしたので、みうさんのご承諾を頂きここで紹介させて頂きます。

<知的障害者の介護について>
 多目的室について検索して、websiteの日記の記事に辿り着きました。JR東と東海・西日本の制度的な違いというのは初めて知りまして、たいへん興味深く読ませていただきました。掲示板でも「特別扱いに抵抗」「発券に手間取る」などのご意見を拝見させていただいて、ああなるほどな、と感じています。
 さてわたくしがメールをさしあげましたのは、「多目的室」を時間をかけて予約してでも、指定席をとってでも、どうしても利用したい局面を体験したからでございます。
 わたくしの弟は重度の知的障害を抱えており、成人しているのですが、多動の子のため、飛び跳ねたり奇声をあげたりします。そのため長時間同じ室内・同じ座席に乗り続けなくてはならない特急や新幹線はほかのお客さんに断続的に迷惑を感じさせてしまうので「介護側が居づらい」のです。知的障害の奇声・奇行の類いはしつけや言いつけで
簡単におさまるテのものではないですので、乗る前にようく言い聞かせても無駄であることがほとんどなのです。
 母方の祖母が逝去したため、通夜に参列するため弟をつれて東京-新大阪間を利用したのですが、往復ともに予約して利用しました。ほかのお客さんに神経を使うことなく、必要以上に弟を叱り飛ばすこともなく(笑)、安心して利用できました。ただ座席のシートが若干窮屈なのと、場所的にどうしても「隔離」感は感じますね。わたしたちは「隔離される状態」を望んで選択していますのでそれほど苦にはなりませんけれども、車椅子の方々にはあの隔離感はたしかにちょっと抵抗があるのも共感できます。
 知的障害の介護で利用する場合、こんな話があるよ、というメールでございました。

 このメールを読ませて頂いた感想は、肢体不自由のバリアフリーだけでは説明できない、もっといろんなバリアが社会にはある。「車いす」や「白杖」、「盲導犬」という、目に見えるハンディに対しては随分周囲の理解が深まってきたような気がしますが、でも、それ以外の、「知的障害」「自閉的傾向のある人」「ADHD」などに対しては、その障害自体まだまだ認知されているとは言い難く、家族の方々がとてもつらい思いをしているというのが現状ではないか、と感じました。車内で不安定になったりしているとき、「わがままだ」、「しつけがなっていない」と受け止めてしまいがちなことが多いと思いますが、それだけの問題じゃない、ということも、周囲にいる人たちは理解しなければ、と思うのです。別に前述の障害を持っていなくても、初めての環境が苦手な子、意外と多いはず。そういう不安を受け止めてあげることのできる、懐の大きい社会だといいなあ、とつくづく思います。「うるさい!」と一喝するんじゃなく、「どうした?」と声をかけられる、そういう心の余裕。
 みうさんは「目に見える障害や、障害の有無にかかわらず、知的障害をあたたかく放置する余裕や、杖をついてなくても老人が荷物重たそうにしてたら持ってあげるとか、<誰に対しても平等に機会が与えられる>ことがバリアフリーの理想だと(勝手に)思います。」ともおっしゃっていました。
 <車イス>だけの視点ではない、もう一つのバリアフリーについて、私たちは考えていかなければならない時期に来ていると感じます。バリアフリー=車イス、だけではなく、「ああ、そういうことも大変なんだ」といろんな社会のバリアをたくさんの人に知ってもらうことが今、すごく大事なんじゃないかと思うのです。これからもこの問題は、いろんなカタチで発信していくつもりです。これからもよろしくお願いします。


2003年12月9日(火)「自閉症児の理解とワッペン」

 車イスって、周りから目で見えるので、理解がしやすいというか、配慮されやすいといえるかな、と。これが自閉的傾向のある方だと、周囲からなかなか理解されず苦しむケースが多いんです。特に子どもの場合、「わがままな子」と受け取られることも多くて。そんななか、保護者の方々が障害を知らせるワッペンを作り、利用が広がっているとのこと。「認識してもらうだけで周囲の視線が変わり、外出の抵抗感が減った」とのコメントには、段差や垂直移動では説明できないバリアがこの社会には存在するんだと言うことをあらためて感じました。
 買い物をする、電車に乗る、などの生活経験を積むことで、社会性やマナーが身に付くことから、社会に出る必要性が重要視される一方、気持ちが不安定になってしまうことから、外出を控え気味になってしまうのも事実。周囲が「ああ」と納得するだけで保護者の方々も楽になることが多いとのこと。その手助けにこのワッペンが役立てば、というところだと思うのですが。自閉傾向のある方々は電車が好きな方が多いんです。ぜひ、街で見かけたらあたたかく見守って下さい。「がったん」からも、よろしく御願いします。


2002年6月12日(水)「知的障害者のためのバリアフリー」

 知人から、こんな話を聞きました。「JRが、知的障害者や自閉的傾向のある人に対するバリアフリーを考えている。」最初聞いたとき、?と思いました。しかし、よくよく聞いてみると、なるほど。確かにエレベーターやエスカレーターという、ハード面でのハンディはないかもしれない。でも、自分の気持ちを相手にうまく伝えられない、正しい情報を得ることができない、というのは、確かにハンディですよね。そのことで、気持ちが不安定になったりして、ますます公共の交通機関を使いづらくなってしまうことが多いようです。
 言葉でのコミュニケーションが苦手な人にとって、シンボルマークやサインであれば、気持ちや情報のやり取りは随分しやすくなるのではないか。そのマークやサイン集を各駅に常設して、役立ててもらおう、というのが今回のJRなどの考えのようです。
 まだ新聞など、ニュースとして報道されていませんが、ぜひこの構想を実現させ、軌道に乗せてほしいなあ、と思います。なにかちょっとした支えがあることで、気持ちがラクになる人は、まだまだ世の中に多い気がしますので。
 あとは、駅や車内で不安定になって、大きな声を出しちゃったり、身体を大きく動かしたり、という姿を目にすることがあるかもしれません。知的障害者や自閉的傾向のある人は、身体的には障害を感じさせないことが多いので、どうしてもわがままに映ってしまったり、誤解されてしまうなど、本人も家族も、大変辛い思いをすることが多いです。ぜひ、そんなときには、あたたかく大きな気持ちで見守ってあげてほしいと、心から願っています。(2002.6.12.)


2001年11月3日(土曜日)

 バリアフリーといえば、ハード面でのバリア(階段だらけの駅、身障者でも使えるトイレの有無・・・)ということに関心が向きがちですが、なかには、「車内で興奮してしまい、大きな声を出してしまう」「楽しくて楽しくて、椅子に座っていられず、車内をずっと歩き回っている」とか、周囲の視線が「バリア」となり、電車やバスを利用できないでいる方が案外多いのではないか、と感じています。家族にすれば、つい「車で」と鳴ることが多いとも聞きます。「視線のバリア」「心のバリア」について、私たちはもう少し、考えていかなければならないのではないか、と思うのです。
 では、どうしたら、その「バリア」がなくなるのか。段差とか、トイレとか、目に見えるバリアはなくしやすいけれど、目に見えないバリアは時間がかかりそうだし、方法も難しい気がします。自分の問題として、少しでも考えてみることが、まず大事かな、と。そのきっかけに「がったん」もなれたら嬉しいです。
 皆さんの周りには、どんなバリアがありますか?


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